キリスト教政治の会

右でもない左でもない、キリスト教信者たちに伝える政治の話です。

仏教とキリスト教7つの違いの間違い

最近は宗教論議が盛んで良い傾向にあると思う。

ある記事において懸命に丁寧に宗教比較論をなされていた。
仏教の良さは理論的に納得できること、そして
この世での行いによって地獄に行くのかはたまた
極楽に行くのかが決まるとか、私のような日本人にはなるほど納得と思っています。しかしながら
仏教の救いとキリスト教の救いはそもそもが違いのある事です。
ですから仏教徒であった私にはキリスト教に回心
する事は難しい事ではありませんでした、
しかしキリスト教徒の私が仏教に回心する事は
ありません。なぜならそれほどまでにキリスト教
は魅力ある宗教です。

まずは人間の持つ罪に対する考えが根本的に違います
仏教否や釈尊は人間の持つ罪は無明であると言われています。つまり本質に対する無知である。
そしてその結果はありとあらゆる事に対する
執着である。
人間は執着のかたまりであると言われています。
救いの道は釈尊の悟りに至る事である。
このようにおっしゃるのですが、
果たして我々凡人にその境地に至る事が可能でしようか?
難しい事です。
よって日本的仏教は、ただ仏の名前を手を合わせ
て唱えれば救いはあるというのです。
あるいは鎌倉時代以後南無法蓮ゲッキョウ
とひたすら唱えれば救いはあると言われています。

キリスト教の救いは人間の持つ知識や行いだけでは
救いはない。モーセ十戒でも救いは完成しないというのです。救い主が必要です。救いは神の一方的な恵みなのです。
神と人間の間でとりなしをしてくれるのが
エスキリストです。そこに真の救いがあるのです。
このような教えは釈尊の時代には存在しておりません。
エスキリストが最も新しいのです。
普遍性があるのです。だから2千年同じ福音がそのままの姿で伝わって来ました。片や仏教は一度滅び
中国で発展的に付け加えられた教えが大半です。
つまり哲学的に研究された教えです。

さらに日本的に付け加えられた教えです。とても普遍性があるとは言えません。
更にイエスキリストの人生は過激です。自身の肉体生命

悪魔に差し出して神の元に行かれました。
全ては全人類の救いの為の愛の証しの為です。
我々はその恵みを受け入れるのです。
それがキリスト教の本質です。
元々釈尊の修行は人生の目的とこの世における
矛盾の答えを求めて始まり、6年の苛酷な修行の結果荒行では悟りは得られないとわかったのです。
つまり自分の力と自我があるうちには悟りは得られないと知ります。

そこに釈尊の悟りがあるのです。
救いは自己否定に始まり現世の否定に行き着く
のです。

さてキリスト教は自己否定ではないのです。
自分の無知と罪に対する悔い改めの連続です。

そこに未来に対する希望が生まれます。
キリスト教の究極の目的は現世における神の国
完成です。
地球上における争いは個々の罪に原因があるので
最終的に全ての人が神を受け入れ神の愛を実践する事で目的が達成されます。
それも個人の力だけでは達成できないのです。
それがキリスト教伝道の力になってきたなのです。

他者に対する奉仕の精神に溢れています

世界中が平和となるにはイエスキリストの尽くしの心が必要です。政治もその様になされる事を祈リます。