キリスト教政治の会

右でもない左でもない、キリスト教信者たちに伝える政治の話です。

イエスキリストの受難と奇跡の意味

エスキリストは何故に自分の為に奇跡を起こしてでも十字架の処刑から身を守らなかったのか、又
奇跡を起こした事実はあったならそれが出来たであろうとよく言われる。非クリスチャンからの素直な疑問であろう。
信仰としてキリスト教を受け入れた人にとっては愚問と思われる。何故なら信じる事が信仰だから。

私はこの問いに正面から向き合って答えようと
思う。

まず始めに、キリスト教は2千年前に突然と現れた宗教ではないという事です。
その前に長い長いプロローグがあったのです。
アダムとエバと言う人類を代表するカップルが神の下を離れて神とコミュニケーションを取れない状態に陥ったのです。この事件が起きて以来人間は苦悩のなかで、生きるようになった。
個人の内面において霊的無知に陥ったのです。
何が善か何が悪なのか、家庭内のトラブル、そして共同体における争い、そして多民族を攻撃して奪うなどなど今日の世界そのままです。

そこに救いの手を差しのべたのが、神に向かうと言う行為に対する神のメッセージが宗教です。
初期の救いの手はかなり厳しいものでした。ちょうど何も知らない幼児に対するように、
あれをしてはいけないよ、この事をちゃんと守って生きなさい、と教えて育てたのです。
ある特定の民族を特に集中して守って育てたのがイスラエルの民族です。何故なら人類最初に一神教を信じて守って子孫に伝えたのがアブラハムだから。
その息子のイサクの信仰からヤコブイスラエルと言われるようになった。ヤコブの12人の息子達の子孫がイスラエル民族です。
4千年位前の事です。
その頃の日本には縄文時代と言われる文明が何も無い時代です。アブラハムは現在のイランの北部豊かなメソポタミア地方に生まれました。
父と共に豊かな土地を求めて旅に出たのです。
その環境で神にであったのです。夜空を見上げると
満天の今にも降って来るような美しい星がいっぱいです。アブラハムは真剣に人生の意味を考えた事でしょう。
神はその様な人を愛します。
心の清い人は幸いである。
その人は神を見るであろう  イエスキリスト

正にアブラハムはその様な人であったようです。
さてそこから14代のち数々の預言者が現れさらに14代のちダビデが信仰の中興の祖として美しい詞を残しています。旧約聖書の大半を占めていると言っても良い位です。詞とは文字の如く神を讃え感謝する詞です。

さらに14代のちイエスキリストが生まれました。

これぐらい長い期間かけて救い主が生まれて意味もなく処刑されて終わりのはずがないのです。
神はイエスキリストの生け贄つまり犠牲の代わりに
人類の救いを残してくれました。最も愛する子を身代わりに救いの道を残してくれました。
だからイエスキリストの誕生を祝うのです。
最も苦労して生きている人の気持ちを伝え、感じ
るようにキリストは肉体を持って痛みを感じて又神と交わる喜びを伝える為に、愛を伝える為にわずか33年の生涯を捧げて生きたのです。
ですからキリスト教は人に尽くして生きる宗教です。
最も厳しい宗教であり又、最も嬉しい宗教です。