キリスト教政治の会

右でもない左でもない、キリスト教信者たちに伝える政治の話です。

もう一回のクリスマスデー

今日一月6日は東方教会におけるイエスキリストの誕生日を祝うクリスマスです。
何故カトリック東方教会すなわちギリシャ正教会ではキリストの誕生日が違うの?という理由には
長い説明が必要であるが結論から言えば教会が分裂したからである。

エスキリストの使徒パウロは伝道旅行を小アジアからはじめて、コリント今のギリシャの方へ足を伸ばして行ったのです。当時の小アジアと呼ばれた地域は今トルコと呼ばれるところです。トルコの東の彼方にはインドがあります。
その小アジアにはすでにゾロアスター教がありました。この宗教はインドのヒンズー教に影響を与えたと言われ、ユダヤ教で言う神と悪魔の善悪二元論の宗教であり、キリスト教を受け入れる素地がありました。
そして直ぐに多くの教会が建てられました。
当時の世界と言われるところは、まず最初の文明が生まれたところバビロニアから西へ小アジアからマケドニア、此処からアレキサンダーがでてエジプトまで、そしてギリシャ全域今のイタリア半島までが文明のある国家としてまとまっている地域でした。
アレキサンダーの死後に興隆して来たのがローマ帝国です。
ローマ人は初めイタリアの北部フランスに近いところに住んでいました。その地域は平原で住みやすいところでしたがより海に近いローマに移動しました。平原の事をラテンと呼ばれたのでラテン人です。こうしてローマに移動したラテン人は都市国家として栄えました。海に近いことは交易が栄えるところです。当時の世界は地中海の沿岸を渡りながら交易で成り立っていました。
ですからそこに都市国家がいくつも出来るのです。

アレキサンダーの築いた帝国をそのまま受け継いだ
ローマ帝国ギリシャ語を共通語としていましたからギリシャ語を話せるパウロには好都合です。
しかもパウロローマ市民権をもっているので世界中何処にでも自由に旅が出来ました。当時のローマ市民権は絶大なものであり、ローマ皇帝に直訴が出来ました。だからユダヤ人たちと揉め事になった時自分をローマ皇帝の前に連れていけと言うことが出来ました。
そしてパウロはローマに近いところから伝道したのでラテン人の中にもあるいは最初は兵士達からキリスト教が広められたかもしれない。

当時のローマ人は数が少なく兵士はローマ帝国全域から傭兵として集めていました。彼らの中から優秀なリーダーにはローマ市民権を与え帝国に忠誠心を誓わせました。
しかし彼らは遠く故郷を離れてローマに居て心ぼそかったでしょう。そんな彼らにキリスト教は新鮮な良い信仰として受け入れられたのです。
そして彼らが出世して行くにしたがってどうにもキリスト教を認めなければまとまりがつかなくなり、ついに皇帝コンタンチヌスが国教として正式に承認しました。
これがローマ帝国が東方に置かれた由縁です。
コンタンチノープルです。
さて時は流れて、ギリシャ語を話せる人が少なくなるとローマ人はラテン語を共通語にしました。此処からローマ帝国の分裂が始まります。

さてやっと本題のクリスマスデーの違いですが
西のローマ人の冬の祭りで冬至の祭りがキリストの復活と結び付いて冬至の日をキリストの誕生日にしたと言うことです。
一方東方教会つまり小アジアの帝国はおそらくは正しいと思われる1月6日をキリストの誕生日として祝うのです。
しかしながらユダヤ人はユダヤ曆を用いていますので
今でもユダヤ人の祭日は毎年変わります。
つまりローマのクリスマスデーも東方教会のクリスマスデーも正確ではないということで引き分けです。大事なことはキリストの誕生日として祝うことでです。アーメン