キリスト教政治の会

右でもない左でもない、キリスト教信者たちに伝える政治の話です。

やまゆり園事件が日本社会に突きつけたこと

我々の記憶にいつまでも残る凄惨な事件であった。
神奈川県相模原市の障害者施設で入所者19人が殺害された事件は日本社会に対し強烈な衝撃を与えた。それが単に個人の恨みの結果と言う次元を超えたものであり、日本社会に対しての悪魔の挑戦に感じられる。

これまでの障害の扱いと生き方を根本的に考え直すきっかけとなった事件である。
何故なら加害者の主張が、我々が心の奥底に微かながらにも存在する、障害者に対して抱いている思いと共鳴するがゆえに、傷となって残るのだ。
つまり我々も加害者の仲間なのである。

そんな事はないと多くの人は反論するだろう。
しかし確かに事実なのだ。何故なら加害者言う、障害者は社会の為にならない、むしろ邪魔者であるという考え方である。つまり何も生み出してはいない。労働していないではないか?税金の無駄遣いだ、だから皆殺してしまえ、というのである。

ちょっと待てよ!それなら後期高齢者はどうなんだ
あるいは無職の人は、ひょっとしたら自分はどうなんだと際限なく広がる。
そもそも人間の存在する理由はどうなんだとなってくる。

我々のこういった考え方は一体何処からくるのか。
カール マルクスは当時の産業革命による機械化によって労働者が過酷な環境の中で苦しめられる姿を見て、これは資本家の労働者に対する搾取であるとして資本家の時代は革命によって終わりを告げ、労働者の楽園が到来すると言った。
以来労働しない者は価値がないという考え方が広まった。
又日本的思想の考え方に完璧ではない人は汚れであるという、そこに浄めの儀式としての神道が存在する。つまり何か問題がある存在はケガレであり恥ずかしい存在であると考え隠そうとする。身内にそうした存在があると娘の嫁入りに支障があるので秘密にしようとする。あるいは犯罪者が出た家だから一生結婚できないとして自殺した女もいた。

一体日本人の考え方に障害者の人権を認める根拠が何処にあるだろうかと思う。

人間は存在する事ですでに価値を生み出しているのである。神の子としての霊的な存在であり、
救いを受け入れる権利を全ての人が持っている。
知識のある人もない人も、労働者もそうでない人も
障害のある人もない人も、子どもでも老人でも、男でも女でも救いの権利は等しくある。
その事が人権の本来の意味であろう。
ゆえにその権利を奪う殺人は最も重い罪である。自殺もしかりである。

私は障害を持って生まれた子どもを持っご両親にお願いがあります。神の愛が全ての人に注がれているように、皆様も親の愛を持って育て、守ってあげてください。
そして隠そうとせず、いつも手を取って仲良く道を歩いてください。
何処に行くにも手を取って、買い物にも、遊園地にも出かけてください。
そうして日本社会が変わる事を私は願っています。



今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて
、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

第二コリントへの手紙    聖書より